【ゆっくり解説】 秦王朝と殉死 秦にこびりついた忌まわしき因習 【秦 春秋戦国】
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- Опубликовано: 28 июн 2024
- 秦とかかわりの深い殉死文化について語ります。
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たしかに王が世を去ったとき「長男と三男は父に殉じました あと大臣も何人か」という感じに発表すると次男が即位するとき政敵がなぜか誰もいないとかあり得るね、なんて合理的な制度なんだぁ
「殉死させてあげよう。光栄だろ」ということか
衰退してて草
殉タヒは主人を無くした周辺の人間を引き取って面倒見れないから56してしまう、なんて言うのも何かで読んだが
さて何だったか....
@@MrNozza1919
ダビデ王も死ぬ時に重臣達を粛清した。
日本では江戸期に保科正之が殉死を禁じてたね、武士は主君ではなく主家に仕えるべしとして。
将軍が死ぬ度有能な臣下が殉死してたら、組織がガタガタになると懸念したんだろうね。
つくづく過ぎた“弟”でしたよね。
禁止しても主君への忠を尽くす名臣として近代でも殉死の風習が絶えなかった…
家光の遺志でもあったかと😅。家光は何度も何度も殉死止めようとしてますからね。
元々、戦国時代に合戦で討◎した君主へ供腹、追腹で切腹する家臣がいるにはいたが、病死の君主への殉◎は家光政権下の一部の武家(特に伊達家)界隈で流行って一瞬で流行は終わった(1665年に武家諸法度で『不義無益』として御法度に。
伊達政宗と仲良かった家光本人は、伊達政宗が亡くなると速攻で仙台藩の江戸藩邸に使者を送り、殉◎はしないように命じるも、仙台藩側の強い希望で許可する事に…。結果20人殉◎(うち5人は又殉◎)。二代藩主の時は16人。三代藩主の時は既に武家諸法度で禁止されてたから、14人出家。
真田信之は万治元年(1568)に93歳で病没。この時の将軍・家光は伊達政宗の時がそうであったように、殉死を禁じようとしていました。その風潮に対して、鈴木忠重は信之と生前の約定があるからと書簡で幕府へと許可を願い出ます。幕府からの許可が下りた後、忠重は殉死。
慶安4年(1651)4月20日に家光本人が死去した時は堀田正盛、阿部重次、内田正信、三枝守恵とその家臣らが殉◎。元から賛否両論で、堀田正盛等の殉死を契機に、殉死は「不義無益」であるとして正式に禁止。
3年後の1668年宇都宮藩主の奥平昌能の死去に際して殉死者が出ると、家禄を削った上で転封という厳しい処分がなされます。これ以降、殉死は影を潜めることとに😅。
史料編纂所教授の山本博文氏の研究によると、殉死者に共通する特徴としては、武家社会における忠義から発生したという見方から、主君との男色関係、わずかな恩寵を受けた下級武士が主君との一体感を得るために殉死するケースなどが挙げられるとされます。
山本氏は「殉死は忠義の心から出るのではなく、体制化しつつあった社会制度や上下秩序を、自らの死によって打ち破る行動であった」と位置付けています。
下級武士にとって、藩というものは明確な階層秩序の中で出来あがった組織であり、殉死によって、階層を飛び越えて日常は遠い存在である主君と直接つながることのできる手段であったといえた。
これは、戦国の遺風でもあった「かぶき者」的な武士像にもつながり、主君への忠義というよりも、自己主張を根底に持った、衝動的な行動として殉◎があると見られています。
家光の遺志でもあったかと😅。家光は何度も何度も殉◎止めようとしてますからね。
元々、戦国時代に合戦で討◎した君主へ供腹、追腹で切腹する家臣がいるにはいたが、病◎の君主へは、家光政権下の一部の武家(特に伊達家など)界隈というか戦国時代とか、若い頃にカブキモノカルチャーの薫陶受けて育っちゃってる層や世代で一瞬流行って一瞬で流行は終わった(1665年に武家諸法度で『不義無益』として御法度になった)。
家光本人は、伊達政宗が◎ぬと速攻で仙台藩の江戸藩邸に使者を送り、殉◎はしないように命じるも、仙台藩側の強い希望で許可する事に…。結果20人殉◎(うち5人は又殉◎)。二代藩主の時は16人。三代藩主の時は既に武家諸法度で禁止されてたから、14人出家。
(因みに細川忠利の時(1641年)は19人)。
真田信之は万治元年(1658)に93歳で病没。この時の将軍も伊達政宗の時がそうであったように、禁じようとしていました。その風潮に対して、鈴木忠重は信之と生前の約定があるからと書簡で幕府へと許可を願い出ます。幕府からの許可が下りた後、忠重は殉◎。
慶安4年(1651)4月20日に家光本人が◎去した時は堀田正盛、阿部重次、内田正信、三枝守恵とその家臣らが殉◎。元から賛否両論で、堀田正盛等の殉◎を契機に、殉死は「不義無益」であるとして正式に禁止。
禁止から3年後の宇都宮藩主の奥平昌能の死去に際して殉◎者が出ると、家禄を削った上で転封という厳しい処分がなされます。これ以降、影を潜めることとに😅。
史料編纂所教授の山本博文氏の研究によると、殉◎者に共通する特徴としては、武家社会における忠義から発生したという見方から、主君との男色関係、わずかな恩寵を受けた下級武士が主君との一体感を得るために殉◎するケースなどが挙げられるとされます。
山本氏は「殉◎は忠義の心から出るのではなく、体制化しつつあった社会制度や上下秩序を、自らの◎によって打ち破る行動であった」と位置付けています。
下級武士にとって、藩というものは明確な階層秩序の中で出来あがった組織であり、殉◎によって、階層を飛び越えて日常は遠い存在である主君と直接つながることのできる手段であったといえた。
これは、戦国の遺風でもあった「かぶき者」的な武士像にもつながり、主君への忠義というよりも、自己主張を根底に持った、衝動的な行動として殉◎があると見られています。
@@user-ii3xb1lc1l 武家諸法度で1665年に禁止され、その後は主君の家が厳罰に処される事になったので、少なくとも江戸時代では、速攻でやらなくなりましたけどね😅。
武家諸法度で1665年に殉◎は御法度となった。禁止から3年後の宇都宮藩主の奥平昌能(家康の玄孫/人徳無さ過ぎて、彼の横暴かつ不公平な仕置きに、生前に彼を見限って離れた家臣が40人以上いた)の死去に際して殉◎者が出ると(しかも家臣側は武家諸法度での禁止を認識してたけど、それでも人徳なさすぎの君主側が生前に命じており実際は強要)、家禄を大幅に削った上で、宇都宮(関東)から寒く貧しい出羽国山形(東北)の転封という厳しい処分がなされます。これ以降、江戸時代では影を潜めることとになりました😅。
嫌だな。君主側からの強要😅。
もしもこの世がファンタジー世界で死後の世界が実在するなら、誰だって殉死に対する見方が変わると思う。当時の人々の価値観がまさにそれだったんだろう。
結局殉死って死生観の問題だから、今生より死後の世界の方が素晴らしいと考えてしまう時代・地域だと自然に出てくる発想なんよね
名君が亡くなったときに大量の殉死が出るのも、これからは「向こう」の方がマシだと考えたということ
以前中国ドラマ「ミーユエ」で子供たちが詩経の黄鳥をうたっているシーンがあり、興味が湧いてどんな詩か調べてみたらヒエーッとなったことがあります。ミーユエ自身も一度威后に殉死を命じられていました。
あと黄鳥は日本にいるウグイスではなくコウライウグイスを指すらしいですね。基本日本には生息していない鳥なので、いつか見てみたいなぁと思っています。
後継君主を補佐する次世代の人材がちゃんと揃っていて、先代の重臣たちがいつまでも幅を利かせているとやりづらい状態なら、殉死にかこつけて老臣をまとめてバッサリするのもアリかもしれんが、穆公の後追いはやりすぎなんよ。
一見美学的だが穆公の場合は富国強兵を図っていた秦国のブレーンたちが揃っていなくなりせっかくの国づくりが元の木阿弥になってしまう。横山光輝の史記にも同じようなことを描いてあったし…。殉死は国家枢要の地位に就いている者は禁止にした方が国家的損失を防げる。
いやいや前提がおかしいだろお前
日本の古墳の埴輪が作られ始めた理由が「殉葬を止めさせるため」だったという。秦の遺民の子孫が渡来人として日本までやってきていたというから、中国での殉葬の弊害の逸話も伝わっていたんだろうね。
昭和帝崩御時の殉死を覚えている方が多いようですが、高官(少なくとも一度は謁見なり、直答は許されずとも勅語を直接聞いた立場)経験者がいなかった(最高位は尉官)時点で殉死には違いないのでしょうが、どちらかというとアイドルが亡くなった時のファンによる後追い自殺に近い気がします。明治帝の時の乃木夫妻とはなにかが違うように個人的には感じます。
そして大正天皇崩御時にも殉死者はいたのに、そちらは何故か影が薄いという・・・(男爵家跡取、近衛隊経験者佐官、位階持ちという高官なのに)
大正天皇崩御時の件に付いては、大正天皇御本人の政治的歴史的評価が関わっていると思いますな。
大正天皇はご自身すら明治以降歴代天皇で最も印象が薄いと思われますし。
いずれその辺の歴史の評価が変わると、この殉死の評価も変わるのではないかと思います。
日本の武士の殉死は、豊臣秀次(諸説あり)から徳川家綱まで(禁止はさらにその前)だから、実はかなり短い。
漢やん…俺もやろ!ぐらいのノリ
伊達輝宗の死後遠藤基信・須田伯耆・内田某なんか殉死してる
日本の戦国時代では君臣関係も流動的で殉死も一般的ではないのが確かだが江戸期は殉死→「加増あるかも」がある
また徳のある君主は死ぬと殉死するものが出るもも事実
殉死は「制度的・宗教、慣習的な殉死」「自発的な殉死」と大別できるのではと思う
@@user-br1lo8lh8g 山本博文「殉死の構造」によると、まず、「子孫の栄達のため」に殉死した例はほぼないそうです。
そして、下級武士が一方的に殉死した例が意外なほど多い。戦場がなくなった「あぶれ者のパフォーマンス」的な側面が強かった、と。
このような狂的な側面を嫌い、家綱は殉死は「不忠」であると言明し、殉死者の遺族を厳しく罰しました。このようにして、殉死は途絶えることになりました。
丹下盛賢…は主君と同時期に亡くなっただけで殉死とは限らないのか
面白かったです、ありがとうございました
ご支援感謝感激ッ!!
ありがたきことこの上ありません!!
一応重臣などを殉死させることで後継の息子の権力を脅かされる可能性を減らすことはできるから王家としてのメリットはあるっちゃある。
結果として後世無能な風習とされるのは残当。
手塚治虫の火の鳥で殉死反対を謳って埴輪が作られた、と言うエピソードがあった覚えがあります。
松岡美術館で唐代の馬やラクダの俑がたくさん展示されているところを見ると、唐代には動物の殉死はなくっていたようです。
ミーユエで政敵をいかに殉死させるかみたいな殉死合戦みたいになってたもんなぁ
便乗会はいくらあってもよいとされる
基礎知識をある程度共有している前提で話が進められるので、そのぶん深い話までしてもらえるからね!
ありがとうございます!
穆公 何気に捕虜にした恵公を「生贄、な」とかいう鬼畜ムーブをしていたり(普は腐っても大国、姫姓は名族な訳で
気になるのは
蛮国とされる秦国が商の文化を誰よりも引き継いでいる(?)という事実
私は 秦国の起源を東方由来説を推しています!
ご支援いただきまことにありがとうございます〜!!
東方由来説、まこと興味深いですねェ
秦の闇・殉死。日本でも夏目漱石の「こころ」が明治時代に著されるなど、全く影響を受けていないことがうかがわれます。始皇帝でさえ兵馬俑を作って代替とした(だがそれでも儒者にはぶったたかれた)のにこれを復活させた胡亥の代であっさり滅んでしまうのもむべなるかなです。
訂正します。×「全く影響を受けていない」→〇「全く影響を受けていないわけではない」。お恥ずかしいところをお見せしました。
穆公程の君主なら殉死したくなるのもわかるが、漢の文帝の際に大熊猫が「殉死」したのはあかんでしょ!パンダ座りをしながら呑気に笹を食べていた所急に殺害された熊猫の気持ちを考えると落涙せずにはいられない。丘ちゃんの意見には賛成するぜ!
ありがとうございます!
いつもご支援いただき、本当にもう感謝の念に堪えませぬ……!
大変励みになりまくりでございます……!!
Thanks!
いつもご支援いただき!感謝!感謝!雨霰!!
ありがたや……ありがたや……!
徳川家綱「ちょうど禁止しようと思ってたので助かる」
何故か胴体しか無い人骨がザクザク出たり
1箇所に頭がいっぱい出土する泰の陵墓
建設に携わった人間を無理矢理殉葬した始皇帝陵とかどうなっているんだろうね…
@@user-ii3xb1lc1l
そこらへんは漢の時代に歴史書作らせたからなぁ。
ホントかどうかも怪しいぞ。漢も実態は革命(反乱)の末の政府で失敗してればテロリストだからな。
人材喪失ということを考えると、殉死は廃止していかないといけない風習ですね
贅沢とすら言える殉葬を頑なに続けた秦…
不穏なBGMに対して😆みたいな表情で動画紹介する流れすき
それにしても結局のところ永くこの風習が残ってしまうのが…
明代にまで記録に残ってるからなあ。怖すぎる
西周より前に帝辛(紂王)が殉葬を廃止したんじゃなかったっけ?
明治天皇が御隠れになったあとの乃木大将の殉タヒは有名ですよね。
息子二人は旅順で討ち死に、夫妻ともに殉死って乃木一家は忠義のために生まれてきた一族だね😢
@@natsukiy.7195😅
0:33 荀子「…………」(読みは同じ)
殉死は主君個人に対しては「孝」であったとしても、同時に国家には仕えないということであり、国家への「忠」はなかったと見るのは見当違いだろうか。もっともそれ以前に優秀な人材を失うという点で非合理的であり、殉死は廃れる運命にあっただろう。
穆公が野人に酒を振る舞うエピソードは「東周英雄伝」を思い出しました
霊夢が言うなら殉死はやめようと思います
殉死の代わりに俑を埋葬するのでさえ儒家はめっちゃ非難したが、地味に漢代になっても俑の埋葬はあったりする。ただし、手のひらサイズの人形に小さくなったが。
この内容が限定動画ではないのがさすが。
居酒屋やってんだけど孔子の20何代目の子孫が名刺くれて飲んでいったわ
次は「憤死」でいってみよう
儒者達が秦を虎狼の国と評したのは殉死の習慣にも一因があったのか
猛悪無道の謀将「『一日一力一心』と刻んだ石を埋める。これで大丈夫でしょ。」
待ってました!殉死文化はどこに資料が埋葬されていたのか。どこから発掘したのかは謎ですが。
春秋戦国時代の動画がでたところで
ひとつリクエストです
このチャンネルの動画をひと通り見ましたが
春秋晋目線の動画が文公と城濮戦くらいで
やや少ないように感じます
晋の有名人や有名事件を
もしできれば晋の封建から分裂までの通史をやっていただけると
とてもうれしいです
余裕のある時にでもお願いします
ネウス鳥ア人間は久しぶりにツボw
史書の字だけで「殉死」「殉葬」と書かれても、そうかあ、で終わるけど、婦好墓でずらりと囲むように並べられた遺骨や、明らかに首があり得ない位置に揃えられた骨たちの写真を見ると、生理的に嫌悪感が沸いてくるわあ……
キングダムの山の民が穆公の馬を食べたって話は実話が元になってるのか。
名君が去った後に衰退する国家…(察し)
殉死をしたら先代の知恵袋や、功臣が失う事になるよね。跡継ぎは好きな家臣を作れるけど、国会的に損失では?
ご記載のとおりと私も思います。
殉死もそうですし、先の大戦の桜花や回天などによる特攻作戦も、技術や経験が全く受け継がれない方策なんですよね。
実際に殉死や特攻した人ではなく、それを容認したり命じたりした人にとっては、その当時なりの何らかの理屈や正義があったんだろうか?
と思いますし、また、今後もいつの日か似たようなことが起こってしまうんだろうな😔と思います。
ワ-イ荀子だ荀子大好き!
え、殉死・・・ちょっと殉死してきます
兵馬俑って劉邦もやってるよね?
日本で殉死と聞くと乃木希典と森鴎外著「阿部一族」だな。
今度は、憤死列伝をお願い!
私が没した時は、殉死は不要なるも俑はたくさん埋めて欲しいです。
昭和天皇の時も殉死やった人いたよな
敗戦の時に死にたくても死ねなかった軍人もおりましたので
殉死する側の動機ってどうだったんでしょう⁉️
子孫の地位を約束または個人の忠義や名誉のためなのかなぁ。
穆公が助けた山の民は、ある時穆公が敵に囲まれて絶体絶命になった時に、凄まじい戦闘力で突撃して穆公を救った。
応援(殉死)
日本でも卑弥呼のシにおいて百名の殉シ者が殉葬されたとあり、後に殉シ者の代わりとして相撲の神様こと
野見宿禰が埴輪を考案したとありますね。
ーコメです
荀子「呼んだ?」
そりゃ派遣社員みたいな当時の百家からしたらせっかく士官しても王が死んだら一緒に殉死なんて絶対御免だろうな
人形を埋めるのさえダメ、という考え方って
いわゆる「巫蠱」にも通じる何かがあるのだろうか。
野人に酒を振る舞ったのくだり、眠らせて埋めたかと思った
日本の埴輪も殉死を止めるための俑なんだっけ?
劇場版のキングダム最初のだけ観たんだけど、
戦ってる途中にみんな止まって将軍同士の話し合いを静かに聞いてるシーンがシュール過ぎて観る気が無くなってしまった・・・。
森鴎外の阿部一族を読むとより殉死の悲惨さがわかる
お疲れ様です、形はちょっと違いますが、「水滸伝」の最後、宋江を追うように死んだ呉用・花栄も殉死になるでしょうし、李逵も実質殺害されたとはいえほぼ殉死でしょうね。つまり殉死ってやはりここらでも美徳とされている風に見えます。金聖嘆せんせはこういう部分も気に入らなかったのかもしれませんね。
本邦の殉死と言えば天下の副将軍水戸光圀の父にして水戸徳川の祖の頼房が殉死禁止を遺言したのが有名だったりしますね。なんだかんだで殉死を名誉に思う風習って古今東西あったのでしょう。
儒教が殉死に批判的なのは少し不思議ですよね。
親が死んだら子供が悲しんで餓死することを孝行として賛美してるのにね。
>親が死んだら子供が悲しんで餓死することを孝行として賛美してるのにね。
身体髪膚、之を父母に受く。敢へて毀傷せざるは、孝の始めなり。(孝経 開宗明義章)
三日にして食するは、民に死を以て生を傷ること無く、毀つも性を滅せざることを教ふ。此れ聖人の政なり。喪、三年に過ぎざるは、民に終り有るを示すなり。(孝経 喪親章)
喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ。発して皆節に中る、之を和と謂う。(中庸章句)
君子は中庸し、小人は中庸に反す。(中庸章句)
悪習だけど
殷墟のは実に面白いすよね
馬車にイッヌにと
殉死と言えば私が崇敬する乃木大将。
あの世を信じているなら「慣れ親しんだ主君とどこまでも共に」と考えるのはある意味自然な考えではあるが、身分役職の高い人物が後追いすると穆公みたいな事態になる。為の殉タヒ禁止令なのだが、そのせいで我が国では森鴎外の小説で知られる肥後熊本細川家の阿部一族全滅のような凄惨な事件も起きている。
平成最初期に至っても起きた事件、令和にはどうか起きませんように🙏🏻
そうか、蒙恬と李斯は殉死だったんだね(違う)。
殉死はダメだから代わりにお饅頭(マントウ)を2匹埋めよう
殉死はシュメール文明にもあったらしい
イサクの殉死を止めたのがアブラハム!?
こんばんは。通なもの出して来ますね。フランク王国が大きかったんでそれぞれの地方を区切ったものですがネウストリアは北西側部分でしたね。
今日は殉死ですかあ。確かに秦は殉死の風習のせいで代が変わるたびに国力落としてきたんでしたね。力を付けて来たのは殉死禁止にした後でしたっけ。
献公よくやった!って儒家はいちいちうるせいなあ。「それあなたの感想ですよねえ」ってwwで、復活?ま・た胡亥かよ。ホント暗君だな。
最後まで思いっきりキングダムに乗っかってるのワロタ
キングダム応援会?🤔
儒家さん途中までまともと思ったら俑を埋めるのまで批判するのは違くないかな。
メリット
元勲による組織の硬直化の防止
デメリット
有能な人材の喪失と空白化による国力低下
秦がどことなく薄暗さを感じるのは、こういうとこなんですかねー
優れた君主だからこそ大勢の優秀な部下が連れ立って死にたがるギャグ、切腹文化の祖先が見えます
穆公の駄目な部分だよねえ
「孝」って親に子が尽くす事では無いのかな?
儒教では無くとも、子孫残さず家が絶えるなんて、「孝」とは正反対と思うけどな。家守るのが絶対の時代に。
親の死に殉じるなんで「不孝」
政敵は消せるよな🤔
日本って明治時代までけっこう軍人や政治家の殉死文化が顕著だったよね。こう言っちゃなんだけど終戦までの日本の古風な言い回しが大好きだ。鎮台とか大都督とか、兵部大輔とかさ。陸軍奉行とか。
この後も蜀滅とかやってるのに、現代で人口爆発してるの怖過ぎるよ😢
人がイナゴの様だ
……と、イナゴの一匹が言っているわけだね。滑稽、滑稽。
ここの風習として鳥人間が崩御したらここの視聴者全員殉死するんやで。
代替わり毎に家来が、100何十人もあの世にお供していては、そりゃ国も富まないだろうねぇ 戦国期になってやっと「気づいた」のかもな。
殉死と殉葬の文化は東アジアでは本邦が一番長く残った感じですかね。
海軍中将大西瀧次郎が太平洋戦争後に特攻隊の責任をとって殉死(切腹)したのが最後?
殉死に入れていいかはわかりませんが…
次点でメソアメリカ文明が16世紀までやってますね。
日本で殉葬が禁止されたのは大化改新の時であり、中国における殉葬禁止より遅かったですけど、明朝で殉葬が復活してるんですよね(英宗の代に禁止)。
他の方が書いておられるように、殉死は昭和天皇のときもありましたが。
大西瀧治郎の場合は昭和天皇も存命でしたし、死んだ主君の供をする殉死とは逆ですね。
@@jodasow 丁寧な返信ありがとうございます。おかげさまで自分の根本的な勘違いに気付けました。恥ずかし。主君、主人の後追いの自殺、もしくは他殺が殉死でした。部下を思って死のうが殉死ではありませんね。
1:02おっとろしいってまさか鳥人間さんって関西の人なんですか?
「朕が馬皇后と妃嬪や宮女たちの殉死者BOXと共に眠っている南京の孝陵は世界遺産だから是非来てくれよな。」(永楽帝〜大明天下の輝き〜に便乗)藤原道長「わしを鳥辺野で火葬後はこの越州窯の青磁水注と共に宇治の木幡に埋めてくれ。」「茶畑から出土して今は国宝だ。」(〜光る君へ〜に便乗)
秦って本音と建前履き違えてること多いよね
いや秦に限った話でもないか
殉死?? 自分が死んでからて生きてる人に迷惑かけたくないよな😩
殉死というのは極端な忠義の形、孟子から見たら「異端」の忠義なのでしょうか。
江戸時代には、保科正之とか徳川光圀とか殉死を止めさせたわけですが、孟子からの批判は、殉死では実際に主君のためにというか、国のために役に立たないわけだから、匹夫の勇ということなのでしょう。
革命思想の孟子の殉死観、さらには忠義観は興味深いですね。
個人的には、くだらない学芸会よりも、此方の方が楽しい。
ありがとうございます!
いつもご支援いただき!まことにありがとうございます!!
大変励みになります~!!!
ありがとうございます!
ご厚意、いつも本当に励みになっております~!!
大変感謝しております!!!